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子供の戦争体験

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   戦時中の思い出

       正直言って戦争がいつから始まったのかは記憶がありません。

当時は20歳になると召集令状(兵隊として参加しなさい。という呼び出し状)が送られてきて兵士になる事が義務付けられていたそうです。
 区役所には毎日大勢の人たちが列をつくっていたのを覚えています。

 私の弟の生年が昭和13年だったのに大正13年と誤認されてまだ5歳の幼児に召集令状(赤紙)が舞い込んできて大騒動になった事も
覚えています(×:×)
 幼稚園時代にはあまり思いませんでしたが、だんだん食料が不足していたようです。それまでは米のご飯も特に不自由なく食べられていた
のが、突然金属製の食器にご飯を計量して盛られるようになりました。うどん屋さんなども提供が制限されてきました。
  近所の店で雑炊を食べるのも整理券が必要となり長い列を待ってやっと食べられた記憶があります。

その時もお手伝いさんが付き添ってくれましたが、整理券は私の分だけしかなくて、お手伝いさんは先に帰ろうとしたとき店のご主人が
お手伝いさんの分も拵えてくれて二人とも食べる事が出来ました。
 そのお手伝いさんも私が小学校2年になったときに結婚して退職されましたが今もお元気で豊中に住んで居られます。
私の女房も大変親しくしてもらっていました。


 話が脱線しましたが・・・戦争は日々激しくなり、とうとう大阪の上空にもアメリカ軍の偵察機や戦闘機が姿を見せ始めました!!

 昭和19年頃になると民家の一定区域に縄張りが張り巡らされ家を強制退去させられる事態がありました。
すぐ隣の町会一体に縄張りされて親に聞いたら、空襲で家が燃えても類焼を防ぐためにこの区域の家を壊してしまうそうでした。
多分今の谷町筋もいわゆる疎開道路だったのでは?

 当時の広い通りは南北は御堂筋、堺筋、松屋町、上町筋で東西は日本橋〜上六の通り、長堀通り、本町通り、淀屋橋筋くらいが
記憶にあります。谷町筋は戦後たぶん1965年頃に出来たと思います。堺筋、上町筋、難波駅前〜日本橋3丁目の今の電気屋街も
市電が通っていました。
 私は今でも工場のサイレンを耳にするとすごーく恐怖心が起こります。
当時警戒警報はサイレンがながーく鳴り響き、空襲警報は断続的に鳴らされました。
 当時の我が家には地下室があったので、私たち子供は地下室に臨時に作られたベッドで眠りました。電灯の光が外に漏れないように
笠の周りを黒い紙で覆って真下だけしか光が届かないようにされていました。

昭和20年(1945年の正月をした記憶がありません。という事は正月のお祝い行事も無かったのかな?
 その頃からだんだん敵機(アメリカ、イギリス軍)の襲来回数も毎日のようにありました。昼間はグラマン戦闘機(小型の飛行機)が
地上すれすれの感じで飛んできてバリバリバリっと!すごい機関銃の音がして皆が地に伏せているところのアスファルトに穴が開いていました。
 当時市電が堺筋や上町筋などを走っていましたが、電車をめがけて機関銃の砲撃を受けて多くの人たちが死傷したそうです。
夜、空襲警報のサイレンが鳴り響くいて夜空を見るとサーチライトの彼方に敵機と日本機の応酬戦が照らし出されていました。
私の記憶がさだかねで無いかも?知れませんが、大阪駅前の広場や他にアメリカの爆撃機B29が撃墜されて置かれていたように思います。
 あまり穏やかな話ではありませんが・・・敵の死者の頭を回覧して針でつつくようなデマ?もとんでいた様に思います。
 その年の2月頃からは毎晩のように空襲警報が響き渡り、大きな爆弾の破裂する音が聞こえていました。
 当時小学校3年からは集団疎開(小学生が親から離れて全員集団で田舎へ避難すること)が義務付けられていました。

私も4月からは姉たちが先に避難している滋賀県愛知川町に行く予定で,それまでに小学校の講堂で集団生活の訓練があり
泊りがけで参加しました。
 やはりいくら戦中とは言えそれまで親から離れて一夜でも過ごした事が無かった私はそのときの思いが今でも忘れられません。

それから間もない頃、いつものように兄と一緒に地下室で寝ていると警戒警報に続いて空襲警報のサイレンが鳴り響きいつもとは違う
異様に長く続き、表に出てみると周りが真っ赤でまるで夕焼けのように明るく、空を見上げるとキラキラと星が降るような光った物体が
続々と落ちてきました!焼夷弾です★★★

 この悪魔の火はたちまち町中を猛火で嘗め尽くし私たちは母親に手を引かれて向かいの南区役所に逃げ込みました。
しかし役所の人が来て「ここも危ないからすぐに出てください!」と叫んだので私たちは表に出ました。その時が我が家の見納めでした。
周囲は猛火が近づき私たちは火の粉が舞ってくる中を真田山の方に向かって母親の手をしっかり握りながら逃げ惑った記憶があります。
 やっと火の手から離れた空き家に一旦入って休憩を取りましたがその家にも炎が近づいてきました。子供心に恐怖心を通り越して
ただ無心に皆に遅れないように付いていくのがやっとでした。

もうとっくに夜は明けて空襲警報も解除されていましたが火の手は続き、家の屋根に上がって降ってくる火の粉を火はたき(モップのように
棒の先に縄をくくりつけて濡らしてある)で振り払ってている光景も忘れません。やっと一軒のお寺に入れてもらいお茶や握り飯を頂いた時
本当に生きていられたことが不思議なくらい幼な心に感謝の気持ちがありました。

 

本筋から話は逸れますが・・・


阪神大震災が発生した後の2月1日にボランテイアを申し出て夙川の小学校へ行きました。
当時阪急電車は全滅で阪神電車で香枦園まで行って夙川沿いに歩きました。途中夙川に面したマンションの1階駐車場の
柱が折れて左隣の新築の民家に覆いかぶさるように傾いていたり・・・道路のいたるところに段差が生じたりして自然の恐ろしさを痛感しました。

更に上っていくと大きな古風な民家がありました。
  外観は少しの痛みも見受けられなかったのでさすが昔の家は丈夫だな!
と感心しながら学校に到着しました。実はこの屋敷は当時の西宮市長さんの自宅で、後に知ったのですが市長さんは
崩れた物の下敷きになって亡くなられたそうです。
私たちの仕事は水の配給でした。水源地からタンク車で水を運んできてポリタンクに移してまた戻っていく運転手の皆さんも途中の道が
 壊れていたりして大変だったそうです。
水の配給は時間割り当てになっていて一定量の予備が無ければ待ってもらうことになっていました。
 夙川周辺は高級住宅地が多い地区で水を貰いに来る人たちも多くは高級車で来ていました。
しかし、いくらお金があっても災害時にはお互いの協力が大切だな・・・と痛感すると同時に奉仕を受けるのでなく奉仕させてもらえた自分が
  ありがたく神に感謝しました。
 その後3月にも神戸市内の旧長田区役所で炊き出しの献身をさせていただきました。

その時も長田に入る道路は中国道から山を越えて入るしかなく、早朝から車に分乗して出発しました。
  神戸市でも特に被害が大きかった地区です。到着して表の通りを掃除していると近くの奥さんが出て来て『ご苦労さんやね!けどこんな掃除なんかあそこにいる子たちにさしたら良いやんか!』(見ると役所の上階から若い人たちがただ無気力に外を眺めています。その人たちを指して言ったんだとわかりました。)
私にはそれらの若い人たちの気持ちも判ります。だからこそその奥さんの苛立ちも理解できました。

 本題に戻りますが・・・

先程から母のことばかり言ってますが・・・実は父は町会の役員をしていてずーと事務所で色々指示したりしていましたので
一緒に避難する事が出来ませんでした。兄も消火活動などの手伝いをしていました。

その兄が我が家が燃え落ちる寸前に半分焦げた仏像を持ち出してきました。
(後々性根を抜いてもらってお寺に帰しましたが・・・)

その日の夕方道修町の薬問屋に嫁いでいる長姉が来てくれました。姉の家の辺り一帯は戦火から免れて残っていました。
私の妻の実家も高麗橋で同じく残っていたようです。

 そこでやっと父、兄、姉たちと無事再開する事が出来ました。
   先に田舎の伯父の家に疎開していた弟も一旦帰省してくるのに長姉が迎えに行って帰ってきたところでした。

 私たち一家は家を焼かれて大阪に住めなくなり父母の故郷滋賀県野洲町三上(今の野洲市)に疎開して遠縁の離れに
    住ませていただくことになりました。
  まだ戦争は終わっていないので近くのお寺に集団疎開をしている小学生達が分かれて民家のお風呂に入らせて
もらっていました。
   当時の田舎の風呂は丸い桶で小便溜めの上に設置されていて抜いた湯も小便と一緒に肥料に使われていました。

 転校してきた当初は結構いじめに会いましたがみんなと解け合ううちに仲良くなり今でも同窓会の案内も来ます。

   当時の同窓生は一学年一クラスしかなく私たちの学年が一番多く45人くらいだったと思います。

 

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子供と戦争、戦時中 太平洋戦争を幼心の体験
子供と戦争、終 戦 戦争の終わり
子供と戦争、戦後の復興 戦争が終わり平和がやってきました。
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