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子供の戦争体験

終  戦

その年の8月15日に終戦を迎えました。

   伯父の家を訪れている時伯父が『正午から天皇陛下のお言葉が放送されるから!』ということで最敬礼している伯父の横で
     聞いていました。

  『陳深く世界の現状と・・・・』と終戦勅語が聞こえてきましたが私には何のことかわからなかったので伯父に聞きますと
『日本は戦争に負けたンや・・』と涙を流しながら話してくれました。
 ※伯父は昭和天皇の大嘗祭の際、悠紀斎田の大田主を勤めたそうです。

  そして戦争は終わりましたが敗戦国日本にアメリカ軍が進駐してくるのに色々デマが飛び交い幼心にも多くの不安がありました。
例えば『指を指すとピストルを構えたと思って撃ち殺される!』    とか・・??!

  終戦の年の多分暮れ頃だったと思いますが野洲の中仙道(今の国道8号線)を歩いていると向こうから多数のこげ茶色したトラックのような
自動車が列をなしてやっってきました。

   一台、二台と指をさして数えていると車の群れが目の前に近づいてきました。見ると赤鬼のような顔で軍服を着た見慣れない顔つきの男たち
  が 車から身を乗り出すようにしていました。私は思わず身震いしたこと記憶が残っています。もちろんゆびをで車の数を数えていたから
    だったと思います。

私の記憶ではその時がアメリカ人と初めて出会ったと思います。

翌年何月頃かは覚えていませんが大阪の姉の家に遊びに行きました。父はずーと義兄が経営する市内道修町の薬品会社へ通っていましたので
一緒に付いて行ったように思います。ちょうど会社の昼食時だったのか食事に黒いパンが配られてきました。

義兄の訓示の後一斉に『頂きます!』と言ってパンを口にしましたが・・・到底のどを通るようなものではありませんでした。いわゆる米ぬかを混ぜて作ったからです。
涙をポロポロこぼしながら 食べました(x・x)


  その頃南の道頓堀橋の辺りへ行くと進駐軍の装甲車が道路上に駐車して検問をしていました。
もちろん物資統制の頃でヤミ米などの食料品を持っていると 直ちに検挙されてしまったそうです。

  心斎橋の旧そごうや高麗橋の三越はアメリカ軍のBXとして日本人の立ち入る場所は制限されていました。
 その頃は家を焼かれ、親を失ったり、はぐれたりした戦災孤児が居ました。年は私たち前後の子供たちです。

    そごう前には多くの戦災孤児たちが集まっていたので 通りがかりに見ていると進駐軍の兵士たちがバケツのようなものに
 キャンデーやチュウインガムなどを皆の前にばら撒いて孤児たちは先を争って拾い集めていました。
   孤児たちの収容施設がラジオドラマや歌になってNHKラジオで放送されていました。(当時はまだテレビがありませんでした。

   みどりの丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台 鐘が鳴るなるキンコンカン・・・鳴るなる鐘は父母の「元気で居ろよ」と言う声だ
     
口笛吹いておいらは元気!

   最近でもイラクや中東諸国での戦乱の一番の犠牲者は子供たちであることをすべての大人たちがわかるべきだと思います。

 その当時でもある場所に行けば白いご飯や食べ物が手に入るところがありました。
いわゆる闇市です。今の大阪駅前第三ビル、第四ビル周辺は終戦当時闇市のバラック小屋が立ち並び、今の船場繊維シテイは
     当初戦後にできた闇市の跡にあった ように記憶しています。

その当時は私たち家族はそのまま滋賀県野洲町三上(現在野洲市)に住み着いて21年には妙光寺という村に小さいながらも我が家が
完成しました。

  妙光寺は父の故郷で農地も何反か近所の農家に小作してもらっていたのでそこを幾分か宅地にしてそれから約5年間住むことに
    なりました。
    今までの仮住まいから小学校は大分遠くなり通学も30分くらい要しました。

          もちろん当時は通学バスもなく歩いて通う以外方法はありませんでした。

 

 

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